Sweet sorrow 2
その日の練習もいつもと変わらず始まった。
「明日はコート整備だ。したがって部は休み・・・という事でレギュラーにはいつもの1.75倍の練習をしてもらう。」
という乾の言葉を除いては・・・
「ふにゃぁ〜 さっすがにしんど〜!」
水呑場の水道に頭を突っ込んで揺すぶりながら、菊丸が疲れたような声を上げる。
「そうだね。」
横で手を洗いながらそれほどでもない様子で不二が応じる。
「不二は見かけによらずタフだもんにゃ〜・・・あ、でも。」
まるで猫のようにぶるぶるっと頭を振ると、菊丸が笑う。
「見かけによらない奴がもうひとり。」
菊丸が顎で指した先を見るとコート裏のフェンスにもたれる小さな人影。
「もう着替え終わってる。超ソッコーって感じ?」
くすくすと菊丸が笑う。
「なーにが目的なのかな?あんなに急いで。」
そう言って菊丸が片目をつむる。
「不二・・・幸せ?」
「英二・・・」
「ね?幸せ??」
重ねて尋ねる菊丸に困ったように笑う不二。
そんな不二の表情を見て菊丸がちょっと首を傾げる。
「不二?」
「ちょっと怖い・・・かな?」
ぽつり、とそうもらした彼に菊丸が目を見開いた。
「怖いって何が?」
「・・・色々。」
不二はちょっと笑ってコートを見る。
無限な可能性のあるその小さな背中。時折眩しすぎて・・・怖くなる。
その光を見失ったら自分はどうするんだろうか・・・?
「ダメだよ!不二!!」
思いがけず厳しい菊丸の言葉に不二はびっくりしたように彼の顔を見る。
「相手があのおチビだから、気持ちはわからないでもないけどさ。でも、一度好きになったらGO!っしょ?」
いつになく真面目な顔を作り菊丸が不二に言う。
「ずっと、ずぅっと好きだったんだから、好きでいたんだから、ちょっとくらい幸せでもバチは当たんないって!大丈夫!!」
「・・・英二・・・」
「それにあのコはいいコだよ?・・・ちょっと生意気で、マイペースで、クールで、人の言う事あんまり聞かなくて・・・えーっと・・・」
言葉が続かず、一生懸命指を折っている菊丸に、ぷっと不二は吹きだす。
「それ、誉めてるの?彼の事??」
「・・・つもりなんだけどにゃぁ・・・」
その割にはいい所が出てこず、宙を睨み、うーっと唸る菊丸の様子に不二はその笑みを深くする。
「ありがと、英二。」
そう言った声の優しさに菊丸が不二を見ると、ふわり、と不二が笑った。
「わかってるから・・・大丈夫だよ。」
まるで大輪の花がほころんだかのような、華やかで綺麗なその笑顔に、菊丸は一瞬言葉を失う。
「・・・あーあ、何だかなぁ・・・」
濡れた頭をかきながら菊丸はいたずらっぽい目で不二を睨む。
「そんな顔する不二なんて、初めて見るよ。」
「え?」
「こっちまでドキドキするよ・・・ったく。」
「・・・英二・・・」
「・・・で、結局のトコロはやーっぱシアワセ、なんじゃない!・・・あーあ、つまんなーい!」
菊丸は首の裏で手を組んで大声を上げる。
「あーあ、つまんないったらつまんないっと、あ」
菊丸が唐突にその首を巡らせ、声を上げる。
「大石ーっ!」
こちらに向かって歩いてくる相手に手を振ってまっすぐに駆けていって。
「不二がいじめるにゃ〜。」
「え?」
そう言いながら大石の後ろに隠れる菊丸に、いきなり濡れ衣を着せられた不二は目をしばたく。
「だから、一緒に帰ろ?」
「あ、ああ、別にいいけど。」
何が“だから”なんだかわからないが、その言葉にのまれたように大石が頷くのを見て、菊丸はガッツポーズを作る。
「らっきぃ、じゃ、待ってるね〜」
今まで疲れたと言っていた言葉は何処へやら、まるで跳ねるようにかけて行く菊丸を、ぽけっと見送った後、はっと我に返ったように大石が不二を振り返る。
「不二、英二をいじめた・・・って?」
「・・・やだなぁ、大石まで。」
不二が苦笑する。
「ただ単に話をしてただけ。彼には何にもしてないよ。・・・だからそんなに怖い顔しないでくれる?」
「あ、そうか・・・すまない。」
「相変わらず、英二には甘いんだね?」
あっさりと不二の言葉を認め、素直に謝る彼に不二はくすりと笑うと、少し表情を改める。
「昨日はいきなりごめん。・・・どうしても気になったもんだから。」
・・・部を抜け出した時から気になってはいたが、手塚と大石を街中で見かけた時、不二は密かに恐れた。・・・自分のカンが的中していたのではないか、と。
でも・・・
「良かったよ、ホントに。」
昨夜、その不安に耐え切れず大石にかけた電話。それはいい意味で不二の考えを裏切っていた。
“完治したそうだ。”
電話の向こうで大石が言ったその一言は、彼の弾むような嬉しさをも伝え、同時に、1年以上も前からわだかまっていた自分の胸のつかえを下ろしてくれた。
「・・・長かったね。」
しみじみとそう言う不二に大石がゆっくりと頷く。
「ああ」
「お疲れさま。」
不二が噛み締めるように言うねぎらいの言葉に大石がゆっくりと首を振る。
「オレより手塚のほうが苦しかったはずだよ。」
「・・・そうだね。」
「それに・・・オレはこれはみんな不二のおかげだと思っているから。」
大石のその言葉に不二が彼の顔を仰ぐ。
「もし、お前が気付かなかったら、どうなっていたかわからない。・・・あいつは絶対に隠し通したはずだからね。」
その不二の視線を眩しげに見ながら、大石はきっぱりと言い切る。
「・・・この事、手塚には言ってないよね?」
ややあって不二が大石にそう聞く。
「ああ、約束だからな。」
その問いに頷いた大石はふっと遠い目をする・・・
・・・1年半ほど前になるだろうか。手塚の腕の異常に最初に気付いたのは不二だった。
それこそ誰も気付かない程のミリ単位でのフォームの狂い、球の速度の変化にそれと察しをつけたらしかったが、しかし、不二は自分からは手塚に言い出すことをせず、自分へと打ちあけた。
“少し時間はかかるかもしれないけれど大石から言われたら、手塚はきっと認めるはずだ。”
その告白に衝撃を受けている自分に、諭すように言う不二の静かな横顔が蘇る。
“君は誠実で口が固いし、手塚の信頼も篤い。部になくてはならないサポート役でもある。そんな君に腕の怪我を指摘されれば手塚だっていつまでも隠しておく事は出来ないよ”。
うろたえる自分に不二はあくまで静かにそう言って。
“あと、これは君が気付いた事にしておいて”
“え?”
“彼は・・・手塚はこういった事を一人でも多くの人間に知られるのを嫌がるはずだ。その点、君が気付いただけという事にしておけば安心すると思うからね。”
“不二・・・”
“今なら間に合う。だから・・・手塚を・・・”
「ね、大石。」
大石の回想は不二の澄んだ声で破られた。
「いいの?」
「え?」
いきなりそう聞かれてきょとん、とした顔をする大石に不二がクラブハウスを指差す。
「待ってるよ、英二が。」
「え、あ、そうだっけ?」
いきなり慌てだした大石ににっこりと笑う不二。
「英二は幸せ者、だね?」
「・・・っ」
先ほどの菊丸の意趣返しを自分にされたとは知らない大石はその言葉に耳を赤く染める。
「・・・ところで、不二。」
「何?」
「そう言えば昨日、越前と一緒だったよな?」
「うん、それがどうかした?」
「あの時言ってた事って、本当か?」
「え?」
「デートとか何とか・・・あ、いや」
大石が慌てたように続ける。
「あの時手塚がいたから、そこから話をそらせるためかと思っていたんだけど。その・・・初めて見たからさ。」
「?」
「不二のあんな顔。」
「・・・やなコンビ。」
大石の言葉にややあって不二がぼそりと呟き、苦笑する。
「英二と全く同じこと言って。」
「英二と?え、あ、じゃあ、やっぱり・・・」
「・・・ほら、もう行ったら?英二が待ってるんでしょ?」
先ほどの菊丸の気持ちが何となく分かり、不二はいささか意地悪に大石を急かす。
「あ、ああ。」
自分にもっと何か問いたげな大石だったが、やはり菊丸が気になるのか慌てたようにクラブハウスへと足を向ける。
「大石。」
不意にその背中を不二が呼び止めた。
その言葉に振り返ると、不二がまっすぐこちらを見て微笑していた。
「・・・ありがとう。」
「・・・ああ。」
全てが詰められた不二の一言とその笑顔に、嬉しそうに爽やかに笑う事で返すと、大石はクラブハウス目指して走っていった・・・
・・・やっぱりあれは気のせいだったのか?
その背中を見ながら、不二は思い返す。
自分が手塚に感じた違和感は怪我の治っていないせいだと思っていた。
それが万全となると、やはり自分の気にし過ぎという事になるのだろう。
不二は軽くため息をつく。
今回感じた手塚に対する違和感を不二は誰にも言うつもりはなかった。
何といっても全く根拠のないことだったし、特に大石には、これ以上無用な心配をかけるのは気が引けた。
ただでさえ今まで重い荷物を背負わせてしまっていた彼には申し訳ない気持ちがあって。
でも、自分が手塚に言ったのでは聞き分けてはもらえない、そう思ったから。
・・・いつからだろうか、手塚が自分に対してどこか距離を置いて接するようになったのは・・・。
それに気付いた時、少し寂しくはあったが、反面、仕方のないことだとも思っていた。
人はそれぞれ自分の世界があるのだし、苦手とする人間もいて当然だとも。
でも、手塚がどう自分を思っていようと、彼が自分のライバルであると同様、大切な友人だという気持ちは常に自分の中にあって、彼が許す範囲で自分にできる事はしたいといつも思っていた。
大石に手塚の怪我の事を相談したのは、彼にとって自分ができる一番よい方法だと悩みぬいた末に出した結論だった。無論、大石にとっても手塚は大切な友人だから、自分の無理な頼みを引き受けてくれるだろうとわかってはいたし、大石の優しさは手塚に通じるとも思っていたが、それでも不二は不安を拭う事が出来なかった。
“もし、彼がかたくなに怪我のことを隠し通したとしたら・・・?”
“もし、彼の腕が治療不能なところまで進んでいたとしたら・・・?”
あの夢を彼が叶えられないとしたら、彼はどんなにか嘆くだろう・・・
でも、その心配はもういらないのだ。
不二は自分にそう言い聞かせることで小さな不安を消す。
“大石にも、少し気持ちの休憩をさせてあげないと・・・”
大石にじゃれかかった先ほどの弾けるような菊丸の笑顔が目の前に浮かび、不二は微笑する。
“そういえば・・・待っていてくれているのかな?”
不二は今更ながらコートの裏を伺い、ちょっと笑う。
“帰っちゃったかな?”
そんな彼の様子に不二は眉を寄せ、彼のかがむ植え込みまで足を運ぶ。
・・・不二の近づく気配に気付いたのか、リョーマがその顔を上げた。
「あれ、まだ着替えてなかったんすか?」
「うん、ごめん。」
そう謝っておいてから不二は小首を傾げ、尋ねる。
「・・・で、何してるの?」
そう言ってリョーマが立ち上がり、片手で膝をぱんぱんと叩くと、ちょっと笑って不二を見る。
「先輩、いいものあげましょうか?」
そう言って不二の目の前にリョーマが差し出したもの。
「へぇ。」
彼の指先で揺れているのは四つ葉のクローバー。
「これで結構難しいんっすよ。探すの。」
目を見張る不二にちょっと嬉しそうにリョーマがそう言う。
「ふぅん・・・結構ロマンチストなんだ?」
「・・・言ったでしょ?視力鍛錬。」
思いがけない彼の一面を見せられて目を細める不二に、リョーマは照れたように横を向く。
「いるの?いらないの?」
リョーマの指先からその幸運の葉を受け取ると、不二はちょっと笑って聞いた。
「ね?紙ない?」
「紙?」
いきなりの要望に首を傾げながらも、リョーマが傍らに置いておいた自分のスポーツバックを探る。
「あ、これがいい。」
それを横から見ていた不二がひょい、と指先で摘み上げたプリント。
「あ!それ・・・」
「・・・へぇ、君、結構頭いいんだ!」
それは英語の小テスト。点数は87点と打たれている。
「つまんないとこでミスったっす。」
悔しそうにそう言うリョーマに不二は笑う。
「これ、くれない?」
「・・・いいっすけど、何するんすか?」
「これはね、こうするんだよ。」
不二はプリントに今貰ったばかりの幸運の葉を乗せる。
「・・・なんかのまじないっすか?それ?」
「だって・・・大切にしないといけないでしょ?」
その行動に首を傾げるリョーマに不二はちょっと笑う。
「?」
「初めて君から貰った物だもんね。」
プリントを丁寧に折りたたみながらそう言う不二に、リョーマはどんな顔をしていいかわからずそっぽを向いて、
「・・・オレ、そろそろ帰りますよ?」
照れ隠しにわざと無愛想に言葉を投げつける。
「はいはい。」
不二はちょっと笑って肩をすくめる。
「じゃ急いで着替えてくるから・・・待っててくれる?」
「・・・・・」
その自分の言葉に返事をしないリョーマに不二はくすっと笑って、歩き始める。
「・・・先輩」
「何?」
いきなり呼び止められて、不二が振り返る。
「・・・いや、何でもないっす。」
何かを言いかけて止めたリョーマに不二は首を傾げるが、
「越前。」
今度は自分が呼びかける。
「何すか?」
今しがた貰ったばかりのプリントをひらひらさせると、不二はリョーマに優しい視線を向けた。
「ありがとう。」
「・・・粗末にすると罰、あたるっすよ?」
「気をつけるよ。」
返ってきたリョーマの軽口に不二は笑いを含んだ声で応えると、そのまま早足にクラブハウスへと向かった・・・